自由とデモクラシーのための抵抗
ホセ・ルイス・マーティン・ガスコン / Jose Luis Martin C. Gascon(フィリピン)
フィリピン人権委員会議長 / 2008年度ALFPフェロー
10年前、ある論文を発表する機会があり、そこで私はいわゆるフィリピンの「デモクラシーの後退」について述べた。私たちの懸命な努力にもかかわらず、このデモクラシーの後退は今やわが国ばかりか、全世界で明白になりつつある。フリーダムハウスの「世界の自由度レポート2018」1は、この点をはっきりと指摘している。
世界は今、より不自由に、より非民主的になっている。これまでデモクラシーへの世界的歩みと思っていたものに垂れこめる不吉な暗雲にすぎなかったものが、今や恐ろしげな双子の亡霊となって世界を覆い、私たちを制圧しようとしている。極端な過激主義と反自由主義的ポピュリズム扇動というこの双子の亡霊は、もはやルールではなく非情な暴力による権力に基づく未来を私たちに強いようとしている。
明らかになりつつあるこのシナリオは、もはや単なる一過性の現象として無視できない。これは私たちや私たちの先達が、専制と抑圧との長年の戦いの末に築き上げてきたものに対する実在の脅威にほかならない。人間の尊厳を大切にし、万人の平等を目指し、法の支配を掲げるわれらがデモクラシーの殿堂は危機に瀕している。
フィリピンでは、そして全世界でも、権利の概念が日々試練にさらされている。個々人の権利の重要性は、経済の成長と発展、安全保障、平和と秩序、テロとの戦い、違法薬物との戦争などのいわゆる国家の優先事項によって、脇へ追いやられている。人権と善き人間的価値や理想は共存できないといわんばかりの扱いだ。
2018年12月10日、私たちは世界人権宣言の採択から70周年を迎える。フランシス・フクヤマが「歴史の終わり」を宣言し、多くの賞賛を得てからわずか25年しか経っていない。しかし、かつて私たちがこぞって推進し、育成し、深化させ、拡大させようとしたこのデモクラシーの合意は、今日ファシズムという昔なじみの敵に再び直面している。このファシズムは新たな衣をまとい、親しみやすく姿を変えてはいるが、本質的には昔ながらの主張でその信奉者すべてを誘惑する。すなわち、今私たちが身を置く不確実で困難な時代において唯一可能な安全保障は強い指導者が与えてくれるものであり、私たちはその支配に従い、基本的権利をゆだねなければならないというのだ。
この偽りの選択肢は、民衆の期待に応えることのできない政府に対する国民の苛立ちに乗じて新たな訴求力をもつようになり、それがユートピア的な——あるいは反ユートピア的な——変革のビジョンに対する民衆の圧倒的支持を生み、それを実現できるのは「偉大な指導者」だけだということになった。
自由と人権を、社会の秩序と進歩を妨げる「不安定化要素」と捉える社会的アクターも存在する。今私たちは、抑圧的手法にあまりにも寛容な世論が幅を利かせる時代に生きている。意見を異にする者への抑圧が少しずつ当たり前になり、今では平和と社会の安定を保つための正当な手段と見られるようになった。権利と自由の抑制が、安定と経済的繁栄を促進するための正当な手段として受け入れられるようになり、時には必要だとさえ考えられている。そして多くのわが同胞すらもが、声をそろえて独裁的ポピュリスト指導者を支持するようになった。
これぞまさに私たち皆が困惑し、直面している由々しく困難な現実である。こうした自由とデモクラシーに対する攻撃の多くは今に始まったことではない。しかし、人権弁護士、民主活動家としての私の経験に照らしても、これほどの厚かましさと国民の支持の下に、デモクラシーと人権という概念そのものが、否定、中傷、無視されたことは一度もない。
他の諸国と同じように、フィリピンでもデモクラシーの促進と人権擁護の戦いがあった。だが、わが国は人の命と尊厳への攻撃や蹂躙で最近再び世界の耳目を集めるようになった。ある意味でフィリピンは、人権の危機に絶えず向き合いながら、デモクラシーの誕生のために戦ってきた国際社会の縮図なのかもしれない。
以下の点をはっきりさせておこう。国民のいかなる根源的自由に対する攻撃は、デモクラシーそのものへの攻撃である。いかなる人——とりわけ社会の最底辺にいる最も無力な弱者——に対して加えられるいかなる危害も、人間性そのものの核心に対する攻撃である。
もう一つはっきりさせておきたいのは、私たちはこの国の「麻薬撲滅戦争」などの犯罪抑制に対する国家の義務に敵対しているわけではないということだ。国家が犯罪を抑制するのは当然のことであり、人権という観点からして、むしろ国家には全国民の安全への権利を保障する義務がある。しかし、それは正当な法執行によってなされなければならず、常に法の秩序の範囲内で、人権を最大限尊重して行なわなければならない。
私たちには、こうした困難の中で、偽りには真実を、絶望には希望をもって応えるべく、行動を起こす責任がある。私たちは皆、自分の大切にする核心的価値を守るよう求められている。必要なのは、より多くのデモクラシーであって、それを減らすことではない。私たちは人権を守らねばならず、それを奪われてはならない。デモクラシーと人権は人類の発展を可能にし、人々が栄え、その能力を十全に発揮できるような状況を作り出していくために重要なものである。
私たちを支配し、沈黙させ、敗北させようとするこうした圧倒的な脅威を前に、私たちは互いの奮闘と勝利から力と叡知をふりしぼらなければならない。たとえそれが最初はどれほど無力で微小なものに思えようともだ。前途は困難で不確実だが、挫けてはならない。私たちは礼節と包含の政治を目指し、非暴力的戦略を用い、人間への深い愛を糧とし、正義のために立ち上がる不屈の覚悟をもって自らを奮い立たせ、光は常に闇に打ち勝つという不滅の希望をもって自らを鼓舞しつつ、連帯し前進しなければならない。
※本記事の内容や意見は著者個人の見解です。